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5.28経済産業省前弾圧救援会に関する体験私観(1)

過日、5月28日夜半、仕事が終わっていつものように自身のtwitterのタイムラインを眺めていたら、「Tくんが逮捕された」とのつぶやきが飛び込んできた。

「ついにきたか」という思いとともに、「どうして?」という疑問が瞬時に交差したものだ。

すぐさま現場の状況を確認しようと、twicasを探すと、見知った方が中継中だった。
そのライブにアクセスした時には、既に一連の騒動は終わっていて、その場に佇む人々の会話が流れていた。
そこでの話をかい摘まむと、どうやら逮捕・連行されたのは3名で、嫌疑は「建造物侵入」らしいと。

しばらく経った後、アーカイブを観て状況を確認しようとtwicasの履歴ページに飛び、その時点ではまだ視聴できた動画で、一連の逮捕・連行の場面を観ることができた。
(後にこのアーカイブは非公開となっている)

その記録動画を観た限りでは、彼等3名は、経産省前の門扉前の「アプローチの道路側」部分から、トラメガ一つで政策批判を行っていたところを警官隊に制止され、その場から経産省前テントひろばまで移動したところで、逮捕・連行されていくという一連の事態の推移が確認できた。

まず自分が即座に調べたことは、この状況が「建造物侵入」という嫌疑の構成要件に該当するのかどうかだった。
逮捕された彼等3名がこれからどのように扱われる可能性があるのか予測しておく必要があると気構えたこと、また、警察公安はこれまでも職権を濫用して不当逮捕を行うことがあることを経験として見知っていたからでもある。

嫌疑の不当性については後述するのだが、自分はこの時点で「これは不当逮捕だ」と判断するに至る。
ここから一連の「5.28経済産業省前弾圧救援会」の活動に関与した体験が始まったとしても良いかもしれない。

そこで、自分の備忘録として、また今後の誰かの救援の参考になるかもしれないとの思いから、自分が体験した物事などを出来る限り事実に沿って客観的に書き留めていく。
ただ、ここに記述する内容は、私個人の体験談の域を出ないものであり、全てを正確に記憶しているとは言い切れない。
また、私的な見方・考え方が多く含まれていることも予めお断りしておく。


ネットの情報により、彼等3名が丸の内署に連行されたことは、比較的すぐに分かった。
そして、その日の内には、翌5.29の夕刻より、丸の内署前で3名逮捕に対する抗議行動が行われると伝わってきた。
その時点で、とにかく明日は現場に出向こうと決めていた。

翌5月29日、仕事を終えて丸の内署前に駆けつけてみると、200名を越える多くの人々が集まっていた。

逮捕された3名は、Rくん、Sくん、Tくん(アルファベット順)と呼称することにする。
この呼称からも、この件に関心がある方々にとっては十分本人を特定できるだろうが、本名などをここに明記して無暗に検索エンジンに個人名を喰わせることも憚られるので、この記事ではこう呼んでいくことにする。
また、いわゆる「呼称問題」は後述することになる。

その日、丸の内署前に行ってみて分かったのだが、どうやら3名は別々の警察署に分散して勾留されているらしいとのことだった。
丸の内署にはSくん、中央署にRくん、そして、Tくんはこれら2つの警察署から遠く離れた羽田の東京空港署に留め置かれているというのである。

こうした「分散留置」が行われたこと自体、警察公安になんらかの「意図」があったことを勘繰りたくなるところだ。
丸の内署や中央署に「空き部屋」が無かったための措置だ、というような噂話もあったが、この話に説得力があるとは思えなかった。
3名を「きれいに」分散し、しかも今回の逮捕により、市民運動の界隈で少なからぬ反応を起こすだろうTくんだけが遠方の羽田署に置かれたことに、警察公安が弾圧抗議運動の拡大を警戒した程度の「意図」はあったはずだ。
もっと穿った観方をすれば、参集する人々を物理的に分断することで、今後の3名それぞれの活動の分断を参加者に印象付けるという「姦計」すらあったかもしれない。
警察公安という「専門組織」が、なんの根拠も方針も無く場当り的に動いているとするほうが、むしろ非現実ではなかろうかと思ったものだ。
この点については、法規を引いて後から検証することになる。

丸の内署前での抗議を終え、急遽、中央署へも出向いて、そこで抗議行動は解散とし、3名と一緒に活動することが多い人々が霞が関に戻ってきたのは、既に21時もだいぶ過ぎた頃だっただろうか。
そこから終電間際まで、集まった有志により、彼等の救援に関する話し合いが行われたのだった。

当日の警察署前行動を呼び掛けた人々は、既に救援カンパを募っていたことから、救援活動を行うことを前提として動いていたのだろう。
それだけに、その日の話し合いは、特段の異論も無く、救援会を立ち上げることの様々について議論することで最初から意見が一致していた。
運動参加者から逮捕者が出たなら、救援会を立ち上げるのは当然といった流れではあった。

ただ、より一般的に見れば、Aさんが逮捕された場合、Aさんは自身で直接弁護人や弁護人になろうとする者を選任するか、はたまた警察署最寄りの弁護士会などの当番弁護士にお願いするか、もしくは、Aさんが囚われの身である以上、Aさんの家族や親族などが選任するか、友人、知人にその手配を願って紹介を受けて自身で選任するか、などとなるはずだ。
(弁護士を選任する権利を有するのは、刑事訴訟法で、被疑者本人か本人の法定代理人、保佐人、配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹に限られている。友人、知人、内縁の者などに選任権は無い。)

その際の費用負担や世話一般もひとまず私的な範囲で行うというのが常だろう。

ところが、今般のような件では、日頃、活動に参加する有志がすぐさま救援会を組織して、弁護人の手配から彼等の生活面のサポート、またそれらにかかる費用の捻出まで係わっていこうというのだから、甚だ「お節介」といえばお節介な話ではある。
ただ、市民運動の界隈では、「仲間」が逮捕された時には、救援をするというのが暗黙の了解となっているのだった。

その日の有志打ち合わせでは、まず救援会を立ち上げることが確認され、私を含め初心者に向けて、救援活動のイロハからの情報が共有された。
自分が把握した救援活動の活動内容とは以下のようなことだ。

救援会の目的は、まず第一に、3名を早期に警察の手から解放すること、そのために必要な弁護活動の支援となる。
そこには、弁護人となろうとする者の手配・紹介やその弁護士とのやりとり、それに依頼人の弁護士費用等や救援活動費を調達するためのカンパのお願い、それらの出納管理が含まれる。
これが一番の肝となる。

第二に、自由を奪われている彼等に代わって我々ができる社会的サポートが上げられる。
3名それぞれのご家族やご親族へ彼等の状況を伝えることや、それぞれの職場と接触して彼等が不利な扱いを受けないように交渉すること、さらに、彼等の自宅へ家宅捜査が入った際に、不当な捜査が行われないよう立ち会うことなどがある。
これは、弁護士さんと3名それぞれの関係者との間の「緩衝材」となって、彼等の社会関係を維持することが目的だけに重要だ。
ただ、この彼等3名を社会的にサポートすることは、同時に彼等のプライベートな領域へ踏み込むことにもなるだけに難しい問題を孕んでいた。

そして、この社会的サポートの一貫ではあるが、それを遂行するために、発言を制限されている彼等と外部との「交通」も大きな割合を占めた。
3名とも検察に勾留請求された時点で裁判所から接見禁止決定が出されたので、以降は「接見交通権」を持つ弁護人か弁護人となろうとする者しか彼等と接見することはできない。
そのために、彼等が「外」に対してなんらかの意志表示をしたいと思っても、それを弁護士さんへ伝えるしか術はない。
今回の件のような場合、弁護士さんは近親者などとの連絡は厭わないとしても、例えば、救援有志や市民運動界隈へ彼等の言葉を周知するような任務がある訳ではない。
それだけに、弁護士接見に同行して3名の発言などを彼等と直接に接見した弁護士さんから聞き採り、それを救援有志や支援者の方々へ「交通」する役割が必要となってくる。

そのために、弁護士接見同行が行われた。

そして、接見同行時の受信内容からプライバシー事項をスクリーニングした上で共有できる情報を救援有志で議論できる場、それらの情報から公表できるものを支援者と共有するための広報機能などが準備されることになる。

などなど、以上に記したこれら全ての事柄がその日の会合でレクされた訳ではないが(その後に自己学習した内容も含む)、おおよそのことで言えば、救援会を立ち上げる以上、その集団の目的は、3名を解放するためのサポートをすること、3名の社会的な面でのサポートをすること、という大きく分けて2点のことが確認された訳だ。

自分は、自分の時間的リソース内でできることを鑑みて、広報を担当する旨申し出て、その役どころを承認された。
この会合の後に、救援会有志内での情報共有・意見交換のツールとしてメーリングリスト(以下ML。現在は削除済)を作成し、情報拡散用のツールとして救援会twitterアカウントの作成・管理・共同運営(現在は退会済)、救援会の広報用ブログサイトの作成、管理、運営(現在もアーカイブとして存続)を行うこととなる。

さて、この日の初回の会合ですぐに問題化した事柄が3点ある。

①3名を同時に救援する「統一救援会」とするか、それともそれぞれに個別の救援会を立ち上げるか。
②救援活動を一種の「反弾圧運動」にするのか。
③この事件が不当逮捕に当るのかどうか。

まず、①についてだが、Rくんにしろ、Sくんにしろ、Tくんにしろ、それぞれに考え方が違い、多様な個人として尊重されるべきであることについては、特に異論は無かったところだ。
だが、Rくんは直近に公務執行妨害の嫌疑で逮捕・勾留・解放されたばかりであり、Sくんは執行猶予付きの判決を出された刑事裁判を終え、民事訴訟を争いながら国賠訴訟を抱える立場、Tくんは初めての逮捕といった、それぞれに後背する状況の差があることで、救援有志内でも3名それぞれの関係者の間で「温度差」があったことは否めない。

こうした「温度差」をそれぞれが感じる中で、「統一救援会ではなくて、それぞれ別々の救援会で活動を行うということについては誰も否定しない」という至極妥当な意見も議論された。
しかし、それでも、救援会有志がまとまって統一行動を行ったほうが、分散して活動するより救援目的を達成するための「力」となるのではないか、という意見が大勢を占め、結果的には、統一救援会を立ち上げるということで意見集約されたのだった。

私個人としては、統一救援会でなければ参与しない構えだったので、この形での活動開始決定は好ましいことだった。
逮捕された3名共に見知った関係にあったのだから、それぞれ別個の救援会が興された場合、誰の救援に参加すべきというのだろう?
例えば、Rくん、Sくんの救援はせずに、Tくんだけの救援をするというような選択は、自分の中では全く考えられなかった。
3名は同じ嫌疑で同時に逮捕されたのであり、その逮捕の不当性は全く同等であったにも関わらず、心情的に近いだの遠いだのといった尺度で3名を選別するような行為は、自分にとっては対等性という価値観に照らして許容できなかったのだ。
統一救援会を組織するということになったことで、その広報を担当するという任もそうした考えに合致していたとも言える。

だが、この後、救援会有志の「温度差」は、特にSくんに対するTくんの「仲間たち」(Tくん自身ではない)の私情の問題とも絡んで、救援会内で波紋を拡げることになる。

②についても、この「温度差」から発生してくる。

この問題は、その後に噴出してくる「弾圧語用問題」とも直接的に関連している話なのだが、「弾圧」という言葉の語用適否について問題化する「弾圧語用問題」は、また後述することにする。

ここで、今回の救援会の活動を「反弾圧運動」にすることは避けたいという意見が出されたのだった。

彼等の意見は、恐らく「反弾圧」を声高に叫ぶことは、警察権力をいたずらに挑発する行為であり、捜査員の心証にも影響しかねないことなので、3名の「情状酌量」に悪い方向で働くのではないか、という懸念があったのだろう。
それとともに、世間を煽って「事を荒立てたくない」という消極的な心情論も大きかったのだろうと想像する。
そこには、後述する「完全黙秘の是非問題」も関連してくる。
さらに、Sくんが「反弾圧運動」を継続しているが故の心理的反発、「反弾圧運動」を左翼運動のステレオタイプと見做しそれへの反感などなど、複雑な心象が混入しているように見受けられた。

この夜は、救援会の目的に照らして、その目的が達成された段階で救援会は解散とし、その後も継続して「反弾圧運動」を行うものではない、という着地点で話が終わったと認識している。
救援会という時限的な「社会運動」は行うが、その活動を終えてまで「反弾圧」の社会運動化には向かわないという理解だったと思う。
ただ、この点については、その後、救援会解散の最後までずっと尾を引いた問題となるのだった。

③については、「3名の逮捕は不当逮捕だ」という点について、大方の意見は一致していた。
ただ、その後の活動の中で、こうした理解の深度がそれぞれに違っていることを思い知らされることになる。
つまり、「逮捕は不当なんだろうが、彼等3名も逮捕されるだけの瑕疵があり責任がある」という考え方が一部にあることが表面化してくるのだった。

私は、救援会に参加する前の段階で、今回の逮捕が全く不当であることを確信してから臨んだ。
その確信が無ければ、「仲間」や知人というだけでは救援活動に参加することも無かっただろう。
これが知人に対する不当な「弾圧」だとの確信があったからこそ救援を行ったのだった。

このように書くからには、その確信がどうして固まっていたのかを記さなければならないだろう。
結論から先に言えば、法律に照らして、彼等は「建造物侵入」など犯していないこと、それに彼等を逮捕・連行に至った警察隊のその行為が警察権の濫用であることが明らかなことだったからだ。

まず、「建造物侵入」の嫌疑について検討した内容はこうだ。

この「建造物侵入」を犯罪とする法律は、以下の刑法130条に該当する。

刑法第130条
正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。

この条文の中で、「建造物侵入」に当る部分は、「正当な理由がないのに」「人の看守する」「建造物」「に侵入し」という箇所になる。
「住宅」もしくは「邸宅(庭や物置小屋などを含む)」への不当侵入は「住宅侵入罪」、「要求を受けたにもかかわらずにこれらの場所から退去しなかった者」の部分は「不退去罪」に当る個所となる。
(ちなみに今回3名は「不退去罪」の嫌疑を問われていない。)

今回の嫌疑は、「建造物侵入」だというのだから、その構成要件を検討しなければならなかった。
彼等3名は、はたして「建造物」に不当に侵入したのだろうか?

まず、「建造物」とは何か?ということをはっきりさせなければならない。
「住宅」といった場合は、比較的分かりやすく、「現に人が住居に使用している建物それ自体」ということになろう。
この場合の保護法益は、そこに住んでいる人の居住権、私生活の平穏になってくる。

刑法130条の条文では、「住宅」「邸宅」とは分けて、「建造物」という文言が記されている。
つまり、「建造物」とは「住宅」や「邸宅」とは性質の違うものだとの含意があるのだ。

判例基準で言う「建造物」とは、以下のようなものを意味する。

「家屋その他これに類似する工作物であって、土地に定着し、人の起居出入りに適する構造を有する物」、さらに、「屋蓋(=屋根)を有し壁または柱材により支持されていること」が最低限必要とされる。

今回の件で言えば、「建造物」そのものは、経産省のビル建物そのものということになる。
彼等3名は、経産省のビルの中に入って騒いでいた訳ではないので、この意味での「建造物」には侵入していない。
だが、法解釈では、「建造物侵入」が争われる際には、その建物の周囲の敷地もまた「一定の要件」において、建造物に含まれると解されている。
そうした「一定の要件」を満たした敷地を一般に「囲繞地(いにょうち)」という。

では、この「一定の要件」とは何か?
最高裁判例では、「囲繞地」であることの「一定の要件」を以下だとしている。

①当該土地が建物と物理的に連続してその周辺に存在すること
②外部との境界に門塀等の囲障が設置され、外部との交通が明示的に制限されていること
③当該土地が建物利用のために供されるものであること
の3要件が上げられる。

この解釈で言うと、彼等が居た場所は、「門扉等の囲障」の外側に位置する「アプローチの道路側」の敷地であり、この部分を「囲繞地」であるとするにはそもそも無理がある。
経産省のビル建物の周囲には鉄柵門扉を中心とした高い囲障柵壁があり、「看守」もその囲障内への侵入を制限するために職務遂行しているのだから、確かにその内部は「囲繞地」だろうが、その外側に位置する「アプローチの道路側」の部分までを「囲繞地」とする道理は無いと言える。

「囲繞地」は、ビル建物を囲い、建物と連続して接している敷地なのであり、その境界が門扉を擁した柵壁だとすれば、その境界の外に位置する「アプローチの道路側」の敷地は、「囲繞地」ではないと解釈する他ないだろう。
経産省の敷地なら全てが「囲繞地」になる訳ではないのだ。

さらに、公官庁の施設である経産省の建造物侵入の保護法益は、「住宅」の場合と違って「業務執行権」などである。
確かに、「アプローチの道路側」と公道の境目には、高さ50cmほどのチェーン・ポールがある訳だが、このチェーン・ポールが経産省の保護法益を護っていると解するのは相当に無理があるだろう。

百歩譲って、トラメガで抗議をしたことが「業務執行権」の侵害に該当するのだとしたら、毎週のように経産省前の道路で行われている抗議行動は、「業務執行権」の侵害になる訳だから、威力業務妨害なりで通報されるはずだが、ここ数年間でそんな事案は無い。(そして、今回の嫌疑も威力業務妨害ではない。)

この経産省前抗議行動の行われている場所は、「アプローチの道路側」とほとんど同じ場所なのだ。
つまり、保護法益面から見ても、「アプローチの道路側」を「囲繞地」とするのは無理がある。

付け加えれば、「看守」は主務として、建造物に当る経産省のビル建物内への侵入を制限しているのであって、その主務遂行前段の予防措置として「囲繞地」への立ち入りを抑止しているのである。
門扉囲障により交通を明示的に制限した「囲繞地」へ侵入されることは、ビル建物への侵入の予備段階として警戒することは当然の職務だろう。

しかし、彼等3名は、「囲繞地」の外に居たのであり、門扉囲障を越えて「囲繞地」に立ち入ろうとした素振りも全く見受けられず、ましてやビル建物本体に侵入しようという意図など全く持ち合わせていなかったと考えられる。
(経産省の門扉鉄柵は高さが3m程度あり、それを乗り越えることは物理的に不可能。)

こうして見ると、彼等3名には、「建造物侵入」の構成要件である、「建造物」やその「囲繞地」に侵入した事実そのものが無いのだった。
つまり、これは嫌疑自体が不当だったということだ。
ここでは、彼等3名が「建造物侵入」という罪を犯していなかったことは、ほぼ確定的だったことを記憶しておいて欲しい。

次に、逮捕の妥当性はどうか?

後から知った話だが、警察隊は、経産省職員の被害届により現場に来たのだった。

経産省が配している警備員は、彼等3名が「囲繞地」との境界線である門扉鉄柵に接近していたために、囲繞地への侵入を警戒して、彼らに退去を求めたのだろう。(実際に彼等が門扉を越えることは不可能だが)
そして、警備員よりそうした状況の報告を受けた経産省職員が警察に通報し、通報を受けた警察は聴き採りで被害届を作成し、現場へ捜査に来た訳だ。
(経産省職員が書面を署へ持ち込む時間的余裕は無かったのだからこう推定する以外に無い。
ちなみに「被害届」というものは刑事訴訟法に特定の定めがある書面ではなく、警察が捜査の端緒を判断する通報の一種に過ぎない。)

ここまでの流れはそれだけ見れば、まあ順当だとも言える。

警察官という者の職務は、他の一般的職業の職務と違って、法律によりその執行手続きまで厳重に規制されているという点をまず踏まえておきたい。
なぜなら警察は、一般人と違って唯一、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現できる強制力(こうした強制力は暴力とも言い得る)が与えられているからだ。

この強制力(暴力)を無暗矢鱈に行使されたら、警察権を持った者達に社会が制圧されてしまう事態を招きかねない。
そのために、こうした警察権を「法の支配」の理念に則り、法律等で明確に制限しておかなければならない。
そうしたことから、警察の専横を許さないよう、警察の職務遂行に関しては、憲法の規定から始まって、刑事訴訟法、警察法、警察官職務執行法、犯罪捜査規範などなどの厳しい戒めが施されているのだ。
そして、こうした法規の定めを越える警察権の行使は、職権の濫用として咎められなければならない。

警察官が執る強制手段としての逮捕権の是非を議論していく場合には、こうした大前提を共有しておく必要がある。

まず、最高法規である憲法には、その第31条に、

何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

とある。
これは、「適正手続きの保障」を謳う条項で、一般的には「デュープロセス」と呼ばれる。
刑事手続きにおいては、それが憲法に明示がある以上、実体的にデュープロセスでなければならない。
例えば、「逮捕」といった他者の身体の自由を奪う行為に関しては、法律に定める手続きに則ることが確定的に課されている。

警察が、逮捕といった強制手段を行使する際には、どんな法的手続きが定められているのだろうか?
まず、その法的手続きを定める基底となる法理、原則が採用される。

警察権力は、他者の人権を侵害しうる強制力を持つだけに、その運用は徹底して制限的でなければならない。
大陸法(市民法)に準拠したこの国の法律では、そうした考え方の下、警察権は4つの原則(警察公共の原則、警察責任の原則、警察比例の原則、警察消極の原則)に則り、その行使に「枠」が嵌められている。

この4原則の内、ここで注目すべきなのは、警察比例の原則である。
警察比例の原則とは、「警察権の発動は、除去すべき障害に対比して社会通念上相当であるということができる範囲でのみ発動することができる。」という原則だ。
比例原則は、しばしばの例えとして「雀を撃つのに大砲を使ってはならない」と説明すれば分かりやすい。
手段が目的達成に適合しており、制圧が必要最小限度であり、目的に対して制圧の程度が比例的に大きすぎないことを言う。

こうした警察比例の原則が、そのまま刑事訴訟法の「捜査比例の原則」に準用される。
つまり警察が行う捜査においても、比例原則が課せられており、捜査権の限界が示されている。

この捜査比例の原則を同体として、任意捜査の原則が導かれている。
これは、刑事訴訟法第197条1項の但し書きとして、

但し、強制の処分は、この法律に特別の定のある場合でなければ、これをすることができない。

と規定されている。
つまり、強制的な処分を行う強制捜査は法律の「特別の定め」にある場合に限られること(強制処分法定主義)、裏を返せば、その「特別の定め」の場合以外は、原則的に任意捜査でなければならない(任意捜査の原則)、ということになる。

任意捜査の例としては、被疑者の取り調べ、参考人の取り調べ、任意出頭、任意同行、尾行・張り込み、聞き込み、おとり捜査、実況見分などが上げられる。
つまり、逮捕、勾留、身体捜索、身体検査、鑑定留置、捜索・押収、検証、鑑定などの行為は、デュープロセスの縛りがある強制捜査だということを確認しておきたい。

経産省の通報により、警察官数名が現場に捜査に来たところまでは、概ね順当なことだとしよう。
ただし、刑事訴訟法の適正手続きに従えば、警察官は任意捜査で来たことが大前提となる。
刑事訴訟第197条1項の但し書きにある通り、デュープロセスに従わなければならない警察は、原則的にまずは任意捜査をしなければならない。

例えば、任意同行を求められたとしても、被疑者は同行を拒否することができる。
そして、任意同行に応じた場合でも、いつでも退去したい旨告げれば退去できる。
それが、「任意」の意味するところだ。
そうした拒否や退去が実際的に認められない状況にある場合、それは逮捕という強制捜査になる訳だ。

強制捜査である逮捕には三つの種類がある。
通常逮捕、緊急逮捕、現行犯逮捕となる。

憲法第33条では、

何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

となっており、逮捕を行う場合には、警察(行政)に司法が介在して、裁判所の発布する逮捕令状を必要とするとしている。(令状主義)

そして、この令状主義を大原則に置いて、通常逮捕については、刑事訴訟法第199条以下で、緊急逮捕については、210条と211条で、現行犯逮捕については、212条以下で「特別の定め」が在る。

この「特別の定め」に則り、通常逮捕においては事前に、緊急逮捕においては事後にでも必ず逮捕令状が必要となっている。
つまり、行政判断だけでは足りず、司法判断が必要だということだ。

その上で、緊急逮捕については、同法210条に、「死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないとき」に限って行使できる逮捕権であることも確認しておく。

ここまで法律の適正手続きについて細かく確認してきた。
こうした警察権の制限を見た上で、今回の逮捕を観るとどう映るかだ。

まず、動画で確認できることで言えば、通報を受けた警察官数名が現着して、彼等3名を「アプローチの道路側」から排除に掛かった段階で、彼等3名は、そうした強制に言論で抗議しつつも、特段に有形力による抵抗を示すこともなく、比較的すんなりとその場所から押し出されて、テントひろば前のスペースまで退却している。

まず彼等3名は、公務の執行を妨害するような行為や暴力的な行為などは一切行っていない点は確認しておく。

動画中の音声からも聴けることだが、Sくんは警察官に対して、「任意か?」ということを再三確認している。
そして、警察官達が着用してきた「白い手袋」の件の言及も聴き採れる。

ここで注目しなければならないことは、警察官達が「白手袋」を着用して現場に来ていたということだ。
この件は、任意捜査の原則にも大いに関係している。

警察官の「白手袋」は、主には捜査時における証拠保全を目的に使用するものとされている。
こうした証拠保全を必要とする捜査とは、身体捜査や証拠品押収などといった強制捜査の範疇である捜査となる。
このため、逮捕といった強制捜査を前提とする場合は、警察官は「白手袋」を着用することになる。

つまり、現場に来た警察官達は、逮捕を前提にやって来たと解釈できるのだ。
これは、明らかに任意捜査の原則に反した行動だと言えるだろう。

そして、任意捜査と強制捜査を分ける要件に、被疑者の意思を警官が「制圧」したか否かという基準がある。
「個人の明示又は黙示の意思に反して」身体の自由を拘束するなどの「制圧」をすればそれは強制捜査ということになる。
その点でも、現場警官は、任意捜査の原則を破っていた。

現に、彼等警察隊は、「これは任意か?」というSくんによる再三の問い質しに対してはまともに答えず、「任意なら応じない」という彼等3名の明示的な、あるいは黙示の意思を無視し、身柄を強制的に拘束して、逮捕・連行したのだった。

通常逮捕と緊急逮捕は、警察権の濫用を防ぐため、司法判断を介在させて、法によりその強制力を強くコントロールされている。
逮捕令状が事前に準備され、その場で示された事実は無いので、この日の逮捕は通常逮捕ではありえない。
また、建造物侵入は3年以下の懲役10万円以下の罰金刑であるから、令状が事後でも良い緊急逮捕の重犯罪要件にも当て嵌まらない。

つまり、警察は、彼等3名を現行犯逮捕したと解する以外にない。
憲法第33条でも、令状を必要としない逮捕は、令状主義の例外として現行犯逮捕しか許していない。

ただし、である。
通常逮捕や緊急逮捕が令状主義により、その権限を強く制限されているように、その例外である現行犯逮捕も「特別の定め」により限定行使しか許されていない。

刑事訴訟法第212条では、現行犯人の規定として

現に罪を行い、又は現に罪を行い終つた者を現行犯人とする。

とあり、同条第2項の各号で、準現行犯人の規定として、

2  左の各号の一にあたる者が、罪を行い終つてから間がないと明らかに認められるときは、これを現行犯人とみなす。
一  犯人として追呼されているとき。
二  贓物又は明らかに犯罪の用に供したと思われる兇器その他の物を所持しているとき。
三  身体又は被服に犯罪の顕著な証跡があるとき。
四  誰何されて逃走しようとするとき。

と定めている。

また、現行犯逮捕においても同法第199条を準用して、「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるとき」でなければ逮捕権を行使できないと規定している。

現行犯逮捕は、目の前で「明らかに」行われている犯罪、もしくは犯人が明白な場合に限定的に認められるものだ。
現行犯逮捕には、司法判断が下る通常逮捕よりも、明白な犯罪理由が現認されることが要求されているといっても良い。
つまり、罪を犯したことを疑うに足りるそれ相当の理由が無ければ、現行犯逮捕など行ってはならないのだ。

準現行犯人とは、警察官が犯罪行為を現認していない場合の構成要件だが、その場合ですら、被害者等が犯行に遭ったことを叫んでいたり、その者が凶器を保持していたり、返り血を浴びていたりといった程度の客観的で外形的な要件がなければ、現行犯として逮捕できない。

それら要件と比べても分かるように、現に犯罪が行われたという余程の強い嫌疑が無ければ現行犯逮捕はできないのだ。

そして、犯罪捜査規範第118条には、

逮捕権は、犯罪構成要件の充足その他の逮捕の理由、逮捕の必要性、これらに関する疎明資料の有無、収集した証拠の証明力等を充分に検討して、慎重適正に運用しなければならない。

とある。
例えば、建造物侵入という嫌疑であれば、その嫌疑に該当するに足るだけの十分な犯罪性が現場で確認された場合でなければ、現行犯逮捕はできないと言える。
彼等3名が「アプローチ道路側」に居たことは、建造物侵入の構成要件に該当しないことは前述した通りである。

また、同規範第126条第3項には、

警察本部長又は警察署長は、逮捕を行うため必要な態勢を確立しなければならない。

とあり、逮捕の場合の方針は、警察本部もしくは警察署側で、事前もしくは現場からお伺いを立てた上で決められるとも取れる。

「被害届」という一種の通報を受けただけでは、犯罪など構成し得ないのだから、警察官は現場で犯罪性の有無を任意捜査で適法に検証しなければならない。
その上で、本件の場合なら、建造物侵入の構成要件が充足しているのかどうか、現場の警察官が「慎重適正に」検討・判断しなければならないはずだ。

逮捕権という強制力を行使するなら、犯罪性が立証できるほどの逮捕「理由」がなければならず、現行犯人と断定するなら、現場の警察官が任意捜査を通じて適法に判断しなければならず、しかも、その強制力の行使が比例の原則に適って強過ぎるものであってはならないのだ。

しかし、その時の警察官達は、任意捜査の原則を反故にして、予め「白手袋」を着用し、現行犯逮捕を事前に決め込んだ上で現場に表れ、十分な犯罪捜査も無く、構成要件の充足も検討不十分のまま、ただ、警察署の方針に従って彼らを強制連行したと解釈するしかない行動をしたのだった。

たとえその場の警察官達に、建造物侵入の構成要件を検討する能力が無かったとしても(それも酷い話だが)、いきなり逮捕を前提に乗り込んできた体裁では、職権の濫用だと言わざるをえない。

ましてや、現場の警察官達の内の誰かは、逮捕にあたって、現場から署に確認を求めているはずなのだ。
署に在って、判例などを調べ構成要件の検討も可能な環境に位置する、その警察署長からの指示が、現行犯逮捕なのだとしたら、警察側に構成要件を検討する能力が無いなどは言い訳にならない。
全く慎重さ・適正さを欠いた強制捜査だったと断じるしかないだろう。

これが不当な逮捕でなくてなんだというのだろうか?

こうして、そもそも逮捕の「理由」そのものが不当であり、その手続きすらも不当性が高いのだから、逮捕の「必要性」にまで言及するまでも無いのだが、敢えてその「必要性」があったのかどうかも見ていこう。

逮捕の「必要性」とは、一般的に刑事訴訟規則の第143条の3が参照され、そこでは「被疑者が逃亡するおそれがある」場合や、「罪証を隠滅するおそれがある」場合でなければ逮捕権を行使できないと解されている。

まず、罪証隠滅のおそれだが、建造物侵入の嫌疑でどんな罪証を隠滅できるというのか?
彼等3名は、ただ「アプローチ道路側」に居ただけが嫌疑なのだから、隠滅すべき証拠が無いのだ。
(彼等の手の及ばない記録動画は彼等が隠滅できるような証拠には当らない。)

では、逃亡するおそれについてはどうか?
こうなってくると既に警察官の主観の問題になってくる。
被疑者にその気が全く無くても、警察官に逃亡のおそれ有りと判断されてしまえばどうしようもない。
特にRくんやSくんは、警察に面が割れており、別件で居住所の情報も知られているはずだが、そこへ帰宅・在宅せずに逃亡するおそれがあると強弁されれば抗するのは難しい。

そして、この要件はその程度のことだとも言える。
逃亡のおそれは、警察が逮捕の「必要性」を訴える際の常套句でしかないのだ。(要するに不当)

どうだろう?
ここまで見てきただけで、経産省前の「アプローチ道路側」で、表現の自由を行使していただけの3名が、なんら正当な理由も必要性も無く、職権の濫用が非常に疑われる手続きの下に、不当に逮捕されたことが分かってくるはずだ。

これでも今回、彼等3名が逮捕されたことで、何か彼等自身が責任を負うべき問題点があるだろうか?
彼等3名は、そもそも犯罪性が問われ得ない場所に居たにも拘わらず、不当に身柄を拘束されたのだ。
だから、3名はそれぞれに今回の件でなんら負うべき罪も罰もその責任すらも無い。
問題点は、不当逮捕に及んだ警察の側に有り、彼等3名には無い。
そして、彼等3名は、己を恥じたり、恐縮したりする必要すら無いのだ。

むしろ職権の濫用などで違法性や不当性を訴えられるべきは、警察側の行為にある。
本来であれば、憲法17条の権利に照らして、彼等3名が国賠訴訟でも提訴してしかるべきほどの事案だったのだと思う。

ただ、敢えて我々が唯一反省すべき点があるとすれば、市民運動・大衆運動の参加者がこうした法知識についてあまりに疎いということだろう。
この点に隙が生まれ、警察権力につけ込まれることについては、重々反省の上、理論武装をしなければならないのだ。
そして、こうして長々とした文章を残す意味を解して頂けると有り難い。


さて、今回の逮捕劇において、警察の行為がいかに不当だったかについて縷々説明してきたが、彼等警察の行動には、これ以外にも不信な点があることについても記録しておきたい。

まず、今回、これだけ嫌疑不十分であるにも関わらず、なぜ警察は建造物侵入という嫌疑で彼等3名を逮捕したのか?ということだ。

軽犯罪法の第1条32項には、

入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者

という刑罰規定がある。

「アプローチ道路側」の場所が立ち入り禁止の場所だったかどうかは議論があるとしても、今回の件では、建造物侵入の嫌疑よりは該当しそうな嫌疑ではあるまいか?

ただ、軽犯罪法は、「30万円以下の罰金、拘留または科料に当たる罪」に当る、いわゆる「軽微犯罪」であり、その嫌疑では、住所不定か確実に逃亡のおそれがある場合でしか原則的に現行犯逮捕できない。
つまり、軽犯罪法違反では、現行犯だったとしても、住所氏名などが判明した時点で、逮捕権を濫用できないこととされている。(軽犯罪法第4条、刑事訴訟法第217条)

今回の不当逮捕で、経産省や警察が軽犯罪法第1条の32項ではなく、刑法130条の建造物侵入の嫌疑を掛けてきたのは、あくまで彼等3名を現行犯逮捕することが目的だったと疑いたくなるのだ。
建造物侵入の嫌疑を掛けて、目触りな彼等3名をパクってしまえという意図が感じられる。

そうした懐疑を裏付けることとして、今回、彼等3名が「分散留置」されたことも挙げられる。

犯罪捜査規範の「群衆犯罪に関する特則」の段、第245条にはこうした規定がある。

群衆犯罪の被疑者を多数同時に逮捕した場合において、通謀、奪還等を防止するため必要があるときは、被疑者の分散留置その他の適切な措置が講ぜられるようにしなければならない。

3名は、日頃から市民運動、大衆運動の現場で率先した役割を担っており、ある意味で、警察からもマークされている存在だと言えよう。
周知のように、警察は、市民運動、大衆運動といった社会運動を「群衆犯罪」の予備軍として警戒している。
(試しに毎年発表される警察白書には、必ず社会運動の動向を記述しているページがあることを確認されたい。)

つまり、彼等3名は、建造物侵入の嫌疑で逮捕されながら、「分散留置」されたというその扱いにおいて、群衆犯罪の嫌疑であるかのような措置が講じられていたのだった。

これは見逃せない点だろう。
彼等3名が「分散留置」された理由も、彼等が「アクティビスト」だったということに拠ったのではないだろうか。
そのことが、犯罪捜査規範第245条から浮かび上がっている。

さらに、逮捕・連行を行った警察官達は、「機動隊」だったという情報がある。

「機動隊」とは、
”暴動・集団犯罪など、一般の警察官では対処しきれない騒擾を警戒および鎮圧する警察部隊である。実力行使の任務上、体力がある若い警察官を中心に構成されている。
任務は治安警備、災害警備、雑踏警備、警衛警護、集団警ら及び各種一斉取締りである。「治安警備」とは、国の公安又は利益に係る犯罪及び政治運動に伴う犯罪が発生した場合において、部隊活動により犯罪を未然に防止し、又は犯罪が発生した場合の違法状態を収拾する警備実施活動のこと”wikipediaより
とある。

デモなどの現場でもよく見掛ける「機動隊」だが、要するに、その場合、機動隊の主務は「治安警備」にある。
もし、所轄の一般の警察官ではなく機動隊が、「建造物侵入」の嫌疑で出動してきたとしたら、それはおかしな話ではないか?
警察は、この件を単なる「建造物侵入」の嫌疑で扱っていたのではなく、「政治運動に伴う犯罪」が発生したと見做して機動隊を出動させてきたのではないだろうか?

こうしたことから、今回の逮捕を前提とした「弾圧」には目的があり、警察側の社会運動に対する何らかの意図があったのだろうと推察せざるをえないのだ。

いずれにしろ、自分は、こうした検証を重ねて警察権力の不当性を確認しながら、今回の弾圧救援にあたっていたのだった。

(続く)
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愛の営み

「愛」について語るならば、恋愛や性愛について考えることも外せないだろう。

ただ、巷に溢れる「恋愛論」や「SEX観」については、その分野が好きな方々にお任せするとして、自分は別の角度から掘り下げてみたい。

性欲には男女差があって、男性では20代がピークとなり、女性のほうは40代にピークがくるという話があったりする。
ヒトには「発情期」が無いというのが定説な訳だが、生涯を通すと性欲にはバイオリズムがあって、そこに男女差があるのだとしたら興味深い。

例えば、20代の男の子が同年代の女の子と恋愛する場合、男の子はSEXしたくてしょうがないのに、女の子はSEXより恋愛を楽しむこと、つまりロマンス(男女関係の物語性)に夢中だったりする。
つまり、往々にして若い頃の恋愛は根底ですれ違っている部分があり、双方の誤解によって成立していたりする訳だ(笑)

そこで関心の対象となるのが、どうしてこのような男女差があるのだろうか?ということ。

ヒトは、他の生物と同様に、種の生命を継続させるという遺伝的モジュール(世間的に言うところの本能)の要請から、男女が交配して子孫を残すという生殖行動を行う。
我々の中に発生する性欲の根源は、長い進化の歴史の中で我々に生得的に組み込まれている遺伝情報から表現された脳構造や生体化学反応の中に存在する。

「ムラムラする」などと表現される性的な「感情」は、脳内の大脳辺縁系で発火した情動から発して、身体の中にさまざまな化学反応を発生させ、その身体の中の変化を、新皮質を中心とした有意識が認知した状態であり、それがいわゆる性欲として認識される。
(ちなみに、「その気になる」情動を発火させる誘因は、男性の場合、乳房やお尻などの女性の生体構造を見た時の視覚刺激でも発火するのに対し、女性の場合は、単なる視覚刺激だけでは生起せず、関係性の中で培われる安心や承認などのより複雑なプロセスが絡み合って起こるとされている。
男性の発火スイッチは比較的単純な構造だが、女性のスイッチは非常に複雑な構造のものと例えられそうだ。)
つまり、性欲という一連のプロセスは、身体の仕組みの枠内に制限されたものだと言えそうだ。

前述の性欲のピークの話を、女性の身体の仕組みからみるとこういうことらしい。
女性は35歳を過ぎると、エストロゲンという女性ホルモンが減っていき、相対的に男性ホルモンであるテストステロンの働きが強くなると。
つまり身体の中の化学物質のバランスが、35歳を過ぎると「男性っぽく」なってくるのだという。
そのような身体的な変化により、女性は40代に性欲のピークを迎えるのではないか?という説だ。

では、この男女差が本当にあるとして、ヒトの身体と心はなぜそのように進化してきたのだろうか?

脳の性欲中枢である内側視索前野の神経核の体積は、男性は女性の2~3倍大きいという。
つまり、男性の心は、女性より性衝動に支配され易いものなのかもしれない。
そうだとすれば、男女関係において、女性は男性より性衝動に捉われずに、男性のことをより冷静に見定めることができそうだ。

前の話で言えば、20代の男の子が性衝動に駈られている時に、同年代の女の子は、「品定め」をする心の余裕があるのだと。

ここで考えられることは、男女関係には子供を授かるかもしれない可能性があるので、女性は、自分が産むかもしれない子供の生存にできるだけ有利になる相手を選好するのがより適応的だという遺伝情報を、進化の中で予めインプットしてきた存在なのだということだろう。
そして、「できるだけ時間をかけて相手を知り、安心感を得たい」といった相手との関係性にこそより重点を置くようになった訳だ。

このように、性欲という側面だけで見ると、男女の性愛行動も我々の中にある遺伝的モジュールに左右されている面が大きいと見える。
同時に、ヒトの「本能的な」性愛だけをとっても、男女の恋愛関係は一筋縄ではいかない現象だろうと予想できる。

だが、事はまだまだそれほど簡単な話では終わらない。

我々には、好きになる人とそうでもない人とを分ける選好基準がある。
「恋に落ちる」と言うが、どうして人は特定の相手に大きな好意を寄せ、恋愛にまで至るのだろうか?
ただ単に性衝動の赴くままだというなら、誰彼かまわず恋に落ち、SEXに励めば良いのではないか?
しかし、現実はそうではない。
人が誰かと恋愛する際には、人それぞれに「好み」があり、そして、「好き」という感情を強化していく動因がある。
その仕組みはなんだろうか?

ヒトの脳というものは「自己学習型のコンピュータ」だと言える。
別の言い方をすれば、自分で自律的に情報の検索と更新を繰り返すメモリーベースアーキテクチャー型のシステムだ。
(それに対して、広く普及している今のノイマン型のコンピュータは、プロセッサベースアーキテクチャー。)

つまり、脳は、自律的な「学習」によってアルゴリズム(問題解決手順の定式)を自動獲得する。
脳は、既に記憶にある情報を外部刺激と参照しながら、新しい情報であればメモリーを自動更新するという機能を持っており、これを脳内の神経細胞の網を複雑に再構成することによって行っている。

この脳細胞の活性化作用が「学習」と呼ばれるものだ。

いわゆる「本能」は、生得の遺伝情報データベースのアルゴリズムを参照して、我々に進化適応的な行動を促す訳だが、人の心はそれだけで動いている訳ではない。
生後の様々な「学習」により構成された後天的な神経ネットワークにも決定的に影響されている。
この全体が我々の心というものだろう。

人は生まれてから他者と社会的関係を取り結ぶ段階になれば、生得的なアルゴリズムやスキーマ(一連の情報のまとまり)だけを参照して生きている訳では無く、「学習」により後天的に脳内に組織されたシステムを参照して生きている。

先の疑問に戻れば、我々の「好み」とは、生得的な情動と「学習」による情動とに大きく影響されているだろうと推測できる。
特に現代のような巨大な情報化社会にあって、多様な人間関係が交錯する社会関係の中で生じる「学習効果」がどのような脳内組織を形成するかを一般化することは難しい。

そして、我々は「恋愛対象の選好基準」の多くを多様な社会関係の中で「学習」により自動獲得していく。
また、このような心の仕組みが、「本能」を越えたセクシャリティーを形成していくのだろう。

こうなると、一概に推定することのできない様々な要因による「学習」が、個人個人の内面世界を作っていき、好き・嫌いという情動スキーマを象っていくということになる。

だから、我々それぞれが誰かを好きになる動因は、千差万別となる。
恋愛とは、お互いに全く多様な二人の相互関係なのだから、その順列組み合わせたるや天文学的な数字だ。
そう思うと、相思相愛で恋愛をしている二人というのは、奇跡的な出会いであるのかもしれないとも思える。

とはいえ、恋愛が「学習」に依るところに大きいということは、相手を「学習」により好きになるということも起こるだろう。

「学習」は、快・不快という至極シンプルな情動により強化されると言われている。
例えば、当初は好みでもない太郎くんからいつも快いアプローチを受けてきた花子さんは、ある時、太郎くんを好きになってしまうと、花子さんの「好みのタイプ」が太郎タイプに変化するということが起こる。
すると、太郎くんと別れた後も、花子さんの「好み」は太郎タイプとして「学習」されているということがある訳だ。

こう考えると、我々は、相手に合わせて自分を変えながら恋したり、愛したりしているのかもしれない。
頑ななように見える「好みのタイプ」も状況に応じて常に書き変わる。
こと恋愛においては、それぞれの内面世界の違いは、案外と簡単に乗り越えて行けるものだったりしそうだ。
奇跡的に見える出会いも、案外自分が作り出している現実なのだろう。

また、恋愛関係というのは、お互いに快を与え合う行為、快を受け取り合う行為だとも言える。
もちろん、SEXも快感を交換する行為だし、お互いを思い遣り、認め合うことも双方にとって快だろう。
こうした快感体験は、それぞれの「好み(=価値観)」を強化する。
そして、強化された「好み」なりセクシャリティなりが「学習」され、その人の内面世界を作り、次の機会に再活用されるのだ。
逆に、二人の人間関係が不快なものになった時、恋愛関係は終わるとも言えそうだ。
特に一方向からの恋愛関係の終焉は、当人の生き死にを左右するほど強烈なショックとなる。
人生のあらゆる価値感の中で恋愛をゆめゆめ軽視してはならない所以だ。

また、現代では、実際の恋愛経験に拠らずに、マンガや小説、映画、テレビなどの疑似体験からも「学習」が行われているはずだ。
ただ、こうした疑似体験から得られる「学習効果」よりも、実体験による「学習」のほうが、より複雑な神経システムを構成するだろうことは想像に難くない。
疑似体験では、実存する相手との五感全部によるコミュニケーション、リアルな感情の交換には恐らく遠く及ぶはずもないほど、情報量に大きな差がある。
とすれば、自ずと「学習」の質も大きく違うだろうからだ。

いずれにしろ、恋愛感情には、快・不快というベーシックな情動を計りとした「学習」という後天的な脳機能が大きく影響しているといえそうだ。

人は決して独りでは生きていけない。
種としてのヒトであれば、SEXして子孫を残さねば生き残れない。
また、社会的存在である人は、人と人との関係の中でしか生きられない。
「私は独りでも生きていける」というのは単なる観念でしかなく、生後に誰かしらの養育者の庇護を得なければ、今ここにこうして存在していることすらできない。
単独で生きることのできないヒトという我々は、生理的欲求と関係欲求が既に身体の中に組み込まれている。

性愛が生理的欲求から発しているとすれば、それをベースにした恋愛は、誰かと関係しなければ生きられないという関係欲求に大きく影響されている。
そして、恋愛感情(=価値観)は、人間関係(=社会)の中で「学習」により常にアップデートされていく。
そのアップデートがまた、人間の進化の歩みの中に組み込まれていくのだ。

これまでのエントリーでも考えてきた「愛」の特性、利他行動や互恵行動、思い遣りや寛容と言われるものは、恋愛という「愛」の営みから生まれてきたものかもしれない。

恋愛は、「愛」の糠床と言ったところだろうか。

恋愛における「学習」プロセスをヒントにすれば、お互いの違いを乗り越えることや多様性を認め合うこととは、「愛」の「学習」作用で自分自身を塗り変えていくことなのかもしれない。

「愛」を深く知りたければ、もっと進んで恋愛すれば良いのだ。
例え自分が傷付くことになろうとも。

恋愛は、「愛」を知るための最高の「教師」だと言えないだろうか?

愛の芽生え

ホスピタリズム(Hospitalism)という言葉をご存知だろうか?

乳幼児期(生後約0ヶ月から約1年半)の子供が、多くは母親もしくは庇護者と離されて、長い間施設などに入れられ養育された場合に、情緒面や身体面の発育が不安定になったり、遅滞したりすることがあることを総称していうそうだ。

ホスピタリズムという造語を生んだスイスの精神分析医ルネ・スピッツの観察では、乳幼児は、自分に対して一対一で専心して関心を寄せてくれる対象、多くの場合は母親との心身両面のコミュニケーションが欠如すると、次第に感情表現を抑えるようになり、無関心、無感動、無表情になっていくという。また、語彙数が限られたり言語表現が稚拙でコミュニケーション能力の遅れも目立つようになるそうだ。

施設の職員の方々の立場に立てば、複数の子供たちを公平に養育しなければならないため、どうしても特定の一人の子供に集中して面倒を見る訳にもいかないだろう。また、中には養育行為が職務的な「うわべ」だけの対応になってしまうこともあるかもしれない。

それに対して、この時期の子供にとっては、自身が「愛着」する養育者から、自分に対して独占的な愛情を受けられることが特に重要であり、その愛情を受けられないと、心身の通常の発育が妨げられてしまうというのだ。

この乳幼児期は、大脳皮質が急速に発達する時期だとされており、新生児特有の反射的行動の状態から、歩き始めたり、言葉を憶えたり、道具で遊んだりなど、他者と能動的に関わり合う社会的行動が獲得されていく段階でもある。
それだけに、人の人格形成において、乳幼児期の「愛着」対象との関係性というのは、とても重要だろうことが容易に想定できる。

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分と外部の区別がなく、自他という意識が無いとされている。
発育するにつれ、自分と他人を区別できるようになり、そして他者の中でも母親を特定できるようになる。
多くの場合、母親は専従の庇護者である訳だが、乳幼児はこの特別な庇護者に「愛着」を抱くようになる。
この段階では、子供と庇護者の身体的接触(スキンシップ)を中心としたコミュニケーションが活発になるとされ、子供の庇護者への「愛着」はこうした身体的な愛情確認の中から形成されていくという。
そして、幼児期に達すると、子供は、スキンシップを取らなくても、庇護者が自分を愛してくれているという認知だけで、「安全基地」である庇護者から離れて行動できるようになるそうだ。
これがイギリスの精神分析家ボウルビィの「愛着(アタッチメント)理論」の基本的な部分。

先のホスピタリズムの観察と合わせると、ヒトは乳幼児期の急速な心身の発達過程の中で、「最小社会」である庇護者(多くの場合は母親)への「愛着」を形成し、それが心身発達の重要な部分を為しているといえる。

「愛」の芽生えがこの「愛着」の発生にあるとすれば、「愛」は発生の段階から、自分と他者との関係性の中からしか生まれえない。
「愛」とは、そもそも他者性を前提にしたものだといえそうだ。

ボウルビィの説では、子供のこの「愛着」の形成は、『自分に愛情を持ち、世話をしてくれる庇護者』に対して自然発生的に起ることだとされている。
これは、ヒトに限らず、乳幼児期の比較的長い生物が進化の中で織り込んできた適応的行動だというのだ。

では、ヒトが生得的に「愛着」を形成するとして、庇護者との関係性とは何だろうか?
子供は、庇護者が食べ物を与え、身体的成長を助けてくれるから、庇護者と認めるのだろうか?

ここで、アメリカの心理学者ハーロウの代理母実験の事例を紹介する。

representmother.jpg

図のような、大きさが同じ2体の模型を用意する。実際の模型は、立体的な頭に目、鼻、口のようなものが描かれている。
いずれも胴体は円筒形の針金で作られており、胴内には熱源が埋め込まれて暖かみが感じられるようになっている。
片方は、胴体を黄褐色の毛足の長い木綿地で覆ってある。そしてもう一方は、針金の胴のままで胸の辺りに乳首を模した授乳装置が取り付けられた。
ここへ生後間もなく母親から引き離されたアカゲザルの幼児を連れてきてどんな行動をとるか観察するといった実験だ。
ハーロウは、このアカゲザルの「代理母」に対して子ザルがどんな行動をとるか、その時間を計測することで子ザルの「心理」を計ろうとした訳だ。

実験の結果は明確に表れた。

子ザルは、乳を飲む時だけ針金の代理母に抱きつき、それ以外の時間のほとんどを布地を巻いた代理母に抱きついて過ごしたと。

ハーロウの実験から、子ザルは食事面で支援をしてくれる対象よりも、身体的接触で心地よさを与えてくれる対象により愛着を持ったことが観察されている。
子ザルの行動の原動力となっている心的な動因は、庇護者との身体的接触を介した愛着であって、食べ物の獲得は二次的な動因に過ぎないように観える訳である。

そして、この実験にはハーロウも予想しえなかった続きがある。

2体の代理母だけに育てられた子ザル達は、十分に成熟したが長じて問題が表面化する。
その後の経過観察で、特に雌ザルの中に、自然に雄ザルを受け入れようとしないものが多く、人為的に受胎させた場合でも、生まれてきた子ザルを殺したり、子育てを放棄するものが少なくないことが明らかになったのだ。

このことは、冒頭に挙げたルネ・スピッツのホスピタリズムの例を連想させるだろう。
また、以前のエントリーで書いた「愛」の必要性を補強するものでもある。
乳幼児期における庇護者との関係、「最小社会」での「愛」のやりとりは、心の成長に大きく作用している。
「愛」は生得的なものであり、ヒトという個の社会性に決定的に影響している。
もちろん、それは個の集合体である社会にも大きく関与する現象だと言えるだろう。
そして、「愛」は世代間で連鎖的に継承されていくものらしいのだ。

最後になるが、この話にはさらに続きがある。

代理母に育てられた子ザルも、生後数カ月頃から日常生活の中で自然に育てられた同類の子ザルと一定期間自由な接触が計られた場合は、子ザルを殺すといった不自然な行動は見られなくなったということだ。

「愛」は、社会の中で伝播するものなのかもしれない。

愛の香り

アロマテラピーは、香りで心の安定を計ったり、癒しを得ようとしたりするものだが、お香にしろ、香水にしろ、我々は古来より嗅覚刺激により心の状態を変化させようとしてきた歴史がある。

マウスによるある実験では、ある種の合成物質の香りは、マウスに恐怖を感じさせ、失神にまで至らせる効果があることが実証されている。研究室で生まれ育ったマウスには、もちろんその香りを嗅いだ経験は無い。にも関わらず、その香りがマウスを失神させるのは、単に刺激が過剰だというだけでなく、マウスが恐怖する香りというものが先天的に在ることを示唆している。

このことは、冒頭に挙げたアロマテラピーにも通じるものがあるのではないだろうか?
我々は、生得的に快い香り、不快な香りがどんな香りなのかを知っていて、それ故に心が安定したり、癒されたり、時には嫌悪感を抱いたりするのではないかと。

ここで確認しておきたいことは以下の3点だ。
  • 我々の心は多かれ少なかれ、外部刺激の影響を受ける。
  • 外部刺激に反応する心の関数は遺伝的なものも含まれる。
  • 最も基幹的な心の関数のアウトプットは、快・不快である。

1997年の暮れ、「ポケモンショック」という事件が話題になった。
これは、テレビ放映されていたポケモン・アニメを観ていた児童が、あるシーンを観た直後に頭痛や吐き気、眩暈などを訴え、180人近くが入院にまで至ったというもの。
過剰なアニメ表現による視覚刺激が、光過敏性発作を引き起こしたのだとされている。

ここからも理解できることは、ヒトは外部刺激により大きな影響を受けているということだ。
いわゆる五感(視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚)から入力される外部刺激は、我々の心身に直接的に作用している。

さて、知覚に届いた外部刺激に反応するということで言えば、我々には定位反応(定位反射)というものが在るとされている。
定位反応というのは、我々が新しい外部刺激を知覚した時、どうしてもその刺激に対して注意が向いてしまうという生得的な心の反応を言う。

例えば、自分の部屋で静かに本を読んでいるという状況に居たとする。
そこに、隣の部屋から静寂を破る物音が聴こえたとする。
この場合、静かという通常状態に物音という新しい刺激が起った訳だ。
その時、我々はそれが何かを思考する前に、反射的に音のした方向へ顔を向け、耳をそばだて、目を凝らす。
このように、自身が置かれた状況の中で新奇性の高い刺激が起ると、その刺激に対して興味や注意が集中してしまう心の現象を定位反応と呼ぶ訳だ。

この定位反応はどうして起こるのか?
一つには、そのような心の反応の仕組みが生まれ持って我々に組み込まれているものだからだと言う他ない。
つまり、我々の心は、長い進化の歴史の中で出来上がってきたものであり、後天的に獲得するものもあるが、その基幹的な要素に、先天的に備わっている組み込みシステムが実在して、構成されているだろうということが言える。
進化心理学者に言わせれば、危険を察知して生き残るためにそのような仕組みが在るのだと。

今までのエントリーの繰り返しにもなるが、「愛」もこのような心の仕組みではないか、ということをまた強調しておきたい。
香りが心を動かすように、新奇な刺激が心の焦点を絞ってしまうように、ある状況下では「愛」さずにはいられないことが起る。
「愛」は生得的で生理的な心の作用であり、疑い無く実存する現象なのだ。

それでは、どのようなインプットが「愛」を駆動させるのだろうか?
前のエントリーを思い出せば、それが推量できるかもしれない。

目の前で起った自分でない他者の命の危険。

それが「愛」という利他行動のスイッチを押す。

先の事例で言えば、自身の命すら賭して、他者の命を救おうとすらする。
こういった行動が、定位反応のように、非顕在意識下で人々を動かす心の働きでなくてどう説明できるだろうか?
倫理観という観念と思考が人を動かしたのだろうか?(倫理観とは何か?は別の機会に考えるとして)

そうは考えられない。
後先はともかく救出のため咄嗟に線路に飛び出す行動、死に行く中で自分の娘の命を救おうとする動因、これらの究極の利他行動は、生理的反射にも近い心の深い部分に在る衝動、非顕在意識に稼働する「愛」が為せることではないだろうか?

先のエントリーでも観たように、ヒトの認知シーケンスは、外部刺激に対して反射的に反応してから、その後で認知されるに至る。思考より先に身体的・非顕在意識的反応が起る。あの咄嗟の行動も「悲しいから泣く」のではなく、「泣くから悲しい」のだ。「救わなきゃと考えるより先に線路に飛び降りている」のだ。それが後から倫理的に認知される。

それが「愛」の発現の仕方であり、「愛」が在ることの証左にもなっている。

では、どうして「愛」は不確かなものとされてしまうのだろうか?
反射的に行動する人々とそうはしない人々はどう違うのか?

また次の機会に考えていきたい。

愛の実存

我々人間社会には、自己犠牲という行為が実在する。
その極限状態では、自らの命を賭して他者を救うというものまで。

例えば、至近の事件として、最近次のような報道があった。

2013年3月2日、北海道に大雪が降る中、ひとり娘の夏音ちゃん(9才)を保育園に迎えに行った漁師の岡田幹男さんは、娘さんを車に乗せ帰宅する途中、予想外の吹雪に逃げ場を断たれ、遭難してしまった。
車内暖房に頼れない状況で、人家へ避難しようと車外へ出たようだが、状況が過酷だったため、数百m先の倉庫へ辿り着くのがやっとだったようだ。
翌3日、警察に発見された時には、幹男さんは死亡していたが、夏音ちゃんは助かった。
雪中から発見された時、スキーウェアを着込んだ夏音ちゃんは、幹男さんの上着で包まれ、さらに幹男さんに抱きかかえられた状態だったという。
この状況から推測すれば、幹男さんは、身を挺して娘さんを守るために自己犠牲を払ったと考えられる。

寒さに震え両腕の中で怯えて泣く娘に胸をキリキリ痛めながら、自身も凍え死ぬ恐怖に喘いでいたであろう幹男さんの心理状況を想像すると悲痛な気持ちになる事件。
これを先のエントリーでも言及した血縁理論だけで片付けるにはあまりに悲しい出来事だ。

それを敢えて、親が子に与える「愛」の究極要因が血縁理論だと見做したとしても、以下のような事件はどう理解できるだろうか?

2001年1月26日、関根史郎さんと李秀賢さんは、JR新大久保駅で泥酔した男性がプラットフォームから線路に転落したところに遭遇し、男性を救出しようと線路に飛び降りたが、進入してきた電車に轢かれて3人とも死亡してしまった。

まだ記憶に新しいこの痛ましい事件では、亡くなられた3人に直接的な人間関係は無かった。
血縁者に対する「愛」といった枠内では理解できない出来事だったと言える。

個人の中に自己保存のための強い情動が在ることは、前回確認した訳だが、それでは、自己保存の対極にあるこの死をも厭わぬ自己犠牲とはなんだったのだろうか?

文章ばかりでも飽きるので、ここで次の動画を紹介したい。
とても興味深い内容なのでまずはご覧になることをお薦めする。


動画にあったような、戦争の一体感が己の境界を崩すというエピソードはなんとも皮肉な話で興味深いし、ディルケムのホモ・デュプレックス(Homo Duplex)を援用して、聖と俗を論じるのもアメリカ人の宗教的社会背景があってこそで一考に値するだろうが、ここではそれらのことは置いておいて、マルチレベル選択に言及があった部分を参照したい。

マルチレベル選択説とは、進化論の中の一つの考え方で、進化の歴史を経て我々に継承されている性質や特徴(形質という)は、その形質を共有する色々な(マルチな)レベルの所属集団(今風に言えば、家族や企業や町内会や国家)が自然淘汰(選択)された結果、適応的に残ったものである、という考え方だ。
動画中では、フリーライダーを内部に抱えた運命共同体が、内部的には利己的にも振る舞いながら、集団としては利他的にまとまり、結果、利己的な他の形質を淘汰して、利他的な形質が適応していく様をシュミレートしたアニメで説明している。

ここでも言えることは、「愛」という「形質」が進化適応の結果、我々に深く埋め込まれているということだ。

それが時には、自己の死と引き換えにした自己犠牲となって表れるのかもしれない。
「愛」とはつくづく深遠で難しいものだと言えないだろうか?

さて、ここまでのエントリーでは、しつこいまでに還元主義的な手法で、現代科学が到達した知見を多く引いて、「愛」が我々に実存することを考えてきたつもりだ。

「愛」を考えていくにしても、まずその「愛」が「在る」ことを納得していかなければ何の意味も無いからだ。
「愛」が在るのか無いのか、それすら不明瞭で曖昧なものなのか、まずはここをはっきりさせたかった。

どれだけの方々が得心されたかは分からないが、少なくとも自分は、「愛」が実存することについては確信するに至った。
そのことについても折に触れて深めていきたいと考えている。

では、最後に次回以降のテーマを問いながら終えることにする。

我々が「愛」を行う時、自己犠牲を伴ってまで突き進むのはなぜなんだろうか?
「愛」の中身とはどんなものだろうか?
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